現代社会においてゆるやかな時間の流れの持つ意味

投稿者: | 2014 年 10 月 1 日

ある大学の小論文の編入試験を数年解いてみると、意図的にそうしているのかは分かりませんが、共通するテーマが浮かび上がってきました。論じられているテーマだけを見ると共通点がないようにも思えます。ある年は本を読むこと、ある年は科学技術における触覚、ある年はアンティークの価値。
しかし、これらはゆっくりとした時間、自分自身の時間という点で共通しているのです。例えば、本を読むことはテレビや新聞はもちろん、絵画や音楽の鑑賞と比べても時間がかかります。では、非効率で無駄な時間かと言うとそういうわけでもなく、むしろ時間に追い立てられる日常生活とは別の、ゆったりとした時間を持つことに意義があるというのです。触覚も視聴覚と比べると主観的で、波長のように技術的に変換することが難しい感覚ですが、実は私たちが見えているものも触った経験が基盤になっているのだそうです。つまり、触ったことのないものは、見えていても十分な注意が払われていないということです。そうすると、触覚が主観的で原始的であると切り捨てることはできなくなってきます。アンティークも、機能的には最新のものに劣るかもしれませんが、そこに過去から積み重なってきた歴史があります。その歴史は時に私たちの想像も及ばないような長さに及ぶこともあります。こうした感覚を拡張していけば広い意味での宗教的な感覚につながるでしょうし、人間がいかに小さな存在であるかを教えてくれます。その意味で、近代以降の人間中心主義に対する警告とも言えます。
これらの現象が教えてくれるのは、私たちがいかに時間に追い立てられた生活を送っているか、経済的な見方でものを見ているかということです。それらは確かに合理的、効率的であるかもしれませんが、合理的、効率的=善という図式とは異なる価値観を持っておくことも必要である。出題者はそういう意図から課題文を選定しているのかもしれません。

増井先生